2010年11月19日金曜日

社員のボランティア活動支援制度に拍手

UTYの「渡辺ブログ」できずなエコから生まれたボランティア活動支援制度の話はいいですね。
ちょっと難しい内容ですが、平成10年3月にNPO(特定非営利活動促進法)法が制定されて、市民と企業と行政の三セクターの協働により新しい公共が創られる気風になってます。
このような社会の新しい動きの中で、企業のボランティア活動支援が意義があります。
先日、11月13・14日に小瀬スポーツ公園で開催された県民の日記念行事では、NPO法人法人山梨県ボランティア協会、生活協同組合パルシステム山梨などが取り組んでいる「もったいない甲斐ネットワーク」の市民活動とメディア(UTY)が協働して啓発活動を行いました。
NTY職員による「紙芝居上演」、歌手の岩崎健一さんとともに行った「もったいない音楽隊」のミニパレード、県立大学生も参加したチラシ配りと語らいなど、楽しく有意義な企画となりました。その成果は、企業と市民活動の協働による成果です。
企業と行政とボランティア・NPOなどの市民活動、異なるものが知恵と時間と思いを寄せあって元気な地域づくりに発展していくことでしょう。
いづれにしても、画期的な制度の誕生に拍手を送りたいですね。

若い力と老いの知恵をつなぐ絆を大切に

<PC故障のため時節外れになってしまいました。>


5月22日(土)午後「若老サロン」を開催しました。
山梨県ボランティア・NPOセンターに若者たちと、かつての若者たち?(60代から90代、最高齢は96歳)が24名集い、グループワーク方式で話し合いました。
参加した大学生は、日頃接する機会の少ない高齢者(老人)とのざっくばらんな交流の中から何を感じたのでしょうか。
戦争の体験談、平和の問題、時事問題として沖縄基地の問題、教育の問題、とかく薄れがちな心と心のふれあい、コミュニケーション、失敗を恐れるために臆病な心情や行動など、若いが故の未知の社会に対する「老いの知恵」を受け継いで成長して欲しいと願う大人たちは、自分の人生経験をふまえて真剣に語りました。

今、無縁社会とか人間疎外とか人間関係におけるマイナス要素ばかりがクローズアップされていますが、このような若さと老いの知恵をつなぎあう絆の大切さを感じました。
若老サロンは隔月で奇数月の第4土曜日の午後行います。今年の特色は、大学生が企画運営に関わり、今回参加した4大学の学生がキーパーソンになって仲間づくりをしていくこととなりました。

サロンでのグループワーク話し合いはいつまでも続いており、時間で中断するのはもったいないような
雰囲気でした。テーマもなく、結論も出さず、相手の発言を否定せず、自分の言葉で語り、他者の言葉にも傾聴するという自由なサロンです。
何と言っても、終わった後に「心のおみやげ」をもってさわやかな気分で帰れるって、いいよね。

沙漠を不毛の地にしておいては勿体ない

<PC故障のため時節はずれですが悪しからず。>

猛暑続きの夏でした。まだまだ続きそうですが、台風のおかげで一休み。

今年の夏、中国の内モンゴル自治区恩格貝の沙漠緑化に行ってきました。地表温度は50度くらいなのに、乾燥しているため日本より涼しい感じでした。

「人間は沙漠に勝てる。」と言い切った遠山正瑛先生(山梨県富士吉田市出身)の言葉どおり、1991年からこの20年間、日本沙漠緑化実戦協会は1万人以上の植林ボランティアを送りこみ、360万本のポプラを植えるという大きな成果を収めました。
その結果、20年前は5軒に5/6人余りの遊牧民が住んでいたのが、今は1700人が定住居住し、何と沙漠への出稼ぎが500人と増えているという。沙漠開発は、ポプラの植林、緑化、動く砂丘を止めて畑に変え、野菜農園を開拓しました。今、かつての沙漠は観光産業を興して、観光農園、ビニールハウス栽培、ワイン工場建設、ホテル建設、学校建設などが進み、貯水池にはモーターボートが走るなど、環境客がわんさと来る一大オアシスとなりました。

20年前、遠山先生は延々と広がる沙漠を眺めながら、「この広大な沙漠を不毛の地のままで放置していては勿体ない。沙漠開発は人類の食糧問題であり世界平和への道だ。」と語りました。「何年くらいかかるでしょうか。」との愚問に、「500年か1000年か、そんなことは分からないけど、やればできる、やらなければできない。」「必要だと思ったら考えること、考えていいと思ったらやること、考えてもやらなければだめ。」ときっぱりと言いました。

あれから20年、不毛の地であった沙漠は緑になり、森になり、草原になり、人が集まり、村をつくり、沙漠産業を興して活気にあふれています。散歩をしていたら、給水車で野菜畑やポプラ並木に水をやる人、道路沿いの雑草を刈る夫婦、出稼ぎの宿舎づくりの工事に汗を流す人・・・・出会う人々の笑顔が明るく元氣いっぱいでした。

今後、日本からの植林ボランティアとともに、間伐による森づくりや、農業振興に新たな知恵を出しあって沙漠開発は進んで行くでしょう。すでに中国政府も本腰を入れていますから、遠山先生の実験的な功績が評価され、モデルとして活かされて中国全土に広がれば、広大な緑の大地が実現し、世界でも有数な農業大国となることは夢ではありませんね。
緑色大使の称号を与えられた遠山先生の偉業は、中国の人々に永遠に語り継がれるでしょう。
諺に、「井戸を掘った人を忘れない。」

テスト

テストです。PC故障のためしばらくお休みしていました。

2010年7月26日月曜日

日本人のおもてなしのこころ「余情残心」

何か大切なことをし終わった時にそれっきりではなく、その後も胸にそっとしまっておきたい。心に余韻として残したい…。 それは人の出会いであったり、ふと見上げた大空の青さ、流れゆく白い雲であったり・・と 何気ない一つひとつの出来事がとても大切に感じます。

先日のNHK番組 「ニュース7”おもてなし”で世界を狙え」 を見ながら考えさせられました。日本人の茶の湯の文化「おもてなし」は、現代の画一主義、合理主義、結果主義の企業感覚、市場原理では計り知れない重みと深みのある日本人の心の源流であるように思われます。
企業抗争の激しい世界の市場で、今改めて日本人の「おもてなし」が問われており、経済的合理性に対抗しうる「物からこころ」の時代に相応しい言葉であるということ、しかも世界に通用する誇れる日本文化として気づき再創生し、価値を高め育てていく必要がある、というような内容でした。

番組を見ながら、この考え方は「もったいない運動」と共通しているなと共感しながら、ふと最近会った二人のことを思い出しました。人間は、一期一会の縁から始まり、逃れようもない必然的な縁の別れとなります。
一人は、母方の遠縁の方で、僕とは血のつながりはない、本来の縁者の奥さんなんだけど、その縁者に関する親戚関係はほとんど他界してしまいました。だが、なぜか彼女は身内のように親しく思えて、山梨県ボランティア協会の会員にもなってくれていました。その会費を届けるために、電車に乗り、猛暑の中を山梨県ボランティア・NPOセンターまで老いた足を運んで来てくださったのです。

「だんだん、お互いに寂しくなりますね」と言って別れた彼女をセンターの入り口で見送りました。ボランティア通りを歩いていく彼女の姿が見えなくなるまで見送りましたが、彼女もまた名残が尽きない感じで振り返り、会釈をしてまた振り向きながら道門を曲がって行きました。
彼女の姿が遠く消えるまで見送った僕は、「そうだ。これが余情残心」なんだと胸から沸き上がるような温かさを感じました。

もう一人は、父方の親戚で、大阪で会社経営している偉丈夫な従兄弟でした。昨年6月に僕の母が他界した時にも来れなかった。気になりながらつい機会をつくれなかったが、思い切って仏前で祈りたいということで来ることにしたと、遠路大阪から車を運転してやって来ました。
10時来訪の知らせがあったので、僕は男だてらに慣れない準備をしました。お茶の用意はできていたので、玄関前を水で清め、花を水で潤わせ、家中の窓を開けて涼を呼び込み、玄関から上がる入り口の角に小さな花を生け、来客を迎えました。僕としては可能な限りの「おもてなし」の気配りでした。

久方の再会を懐かしみながら、母のこと、父のこと、姉のことなど話は弾んで充実した愉快な一時を過ごして従兄弟は帰って行きました。
駐車場まで見送り、車がゆっくり走り出してからもなお、彼方に去っていく姿を追いながら、血のつながり合う者は次第に少なくなってしまうなあと、一時の深い感傷に浸りました。

「無縁の時代」と言われる昨今ですが、血縁、地縁、さらに新たな知縁、社会的親と社会的子の縁など、新しい出会いの中から人間の関係は創られていきますし、またそうしたいと思います。
人は、誰も、一人では生きていけない。このことの意味の深さを考えながら、日本人の心の奥底に潜んでいる「おもてなしのこころ」を呼び起こし、出会いの有り難さに感謝し、その意味と価値をさらに創造的に高めていかなければ、勿体ないなあと感じた二つの出会いでした。

2010年6月10日木曜日

マイナスとプラスのもったいない

YBSラジオ放送「私のもったいない」

過日、YBS(山梨放送)ラジオ番組のコメンテーターとして「私のもったいない」について約3時間、若いアナウンサーと一緒に、リスナーがファックス投稿した意見や感想を交えて話しあった。
二人のアナのテンポの速い軽妙な会話についていくのは大変だったが、楽しい時間があっという間に流れてしまった。番組の中でリスナーの意見に対して「もったいない大賞」を選考する役割を与えられた。
「私のもったいない」についてたくさんの方から多様な生活感覚の視点で寄せられた中から選んだのは、桃の摘果作業を手伝って感じたことを言われた若い女性の言葉だった。
「桃の木の枝にたくさんの実がついている。その中から少数の売り物の桃のために小さな桃を摘んでしまうけど、これって何とか活かせないか?」という娘に、「そんな小さな実は使いものにならないよ」という母と娘の会話だ。
売る桃づくりのために小さな桃は捨てるしかない。確かにそうかもしれない。だが、桃の実がなるまでの長い年月と手間暇の時間を考えると、折角生まれた桃の命を簡単に粗末にはできない。何とか小さな桃の命を活かすことはできないかと考える考え方に共感して「もったいない大賞」とした。
番組の締めくくりに二人のアナと話し合った。「もったいない」というと無駄遣いをしないとか、節約するとか、省資源・省エネのように、とかく消極的に受け身の見方で考えて、「そのくらいいいじゃないか。けちくさいよ。」などと言われがちだが、それは今日の便利社会を代表するような言葉だと思う。
確かに、失うことはもったいない。だが、もうひとつの面から考えると、せっかくの命や自然の恵みをそのままに放置したりすること、それらの持っている「有り難い価値」を活かさないことももったいない。
失わないこと、節約することなどの工夫も生活の中の「もったいない」であるが、これらのことがとかくマイナスにとらえられる中で、「有り難きこと、めったにないこと」を活かすこと、新らしい価値あるものを創ること、そしてそれらを分かち合ってともに快適に生きることも「プラスのもったいない」考え方ではないだろうか。
「そうかあ。もったいないってクリエイティブな創造的な考え方、生き方なんだね。」という若い二人の言葉に、そうだ、そうだ、みんなで「もったいないボランティア」の輪を広げましょうと提案して、楽しい番組を終えた。
終わったあと、いろんな人から「ラジオで聞いたよ。面白かった。楽しかった。改めてもったいないって何か考えるきっかけになった。」という感想を聞いて嬉しくなった。

2010年6月9日水曜日

「もったいない」と「ありがとう」

UTYの「きずなエコ」に対する質問がありました。
URL [ http://kizunaeco.blogspot.com/ ]

質問:きずなエコで歌っている「もったいない と ありがとう おんなじ意味かもしれないね」って言う歌詞なのですが、どんなふうに同じ意味なのか教えて下さい。

このご質問に対してUTYさんは、ブログ「きずなエコ」で回答していますが、さらに「もったいない広場」からもコメントを投稿させてもらいましたので、重複して掲載します。(UTYの渡辺さんご了承ください)

<コメント>
「もったいないとありがとう、同じ意味かも知れないね・・。」「どんなふうに、同じ意味?」
ブログ「きずなエコ」への質問に対する答えを見た読者からのコメントです。お答えの内容に尽きると思いますが、ちょっと一言申し添えます。

 私たちは、山梨発の「もったいない運動」を進めていますが、3年余りの年を重ねるにつれて判ってきたことがいっぱいあります。
 「もったいない」という言葉は、日本古来からの生活習慣・もったいない文化だったように思いますが、現代は、「無駄を省く、倹約、節約、ケチクサイ」、「年寄りじみてる、お節介焼き」などと、日の当たらないナイーブなイメージが強いですね。でも、でも「ううん?」そうだろうかなあと腕組みしながら思います。
 私たちの命は、この世に生を受けたことが有り難い存在です。また普段何気なく当たり前に思って消費している生活用品や物資などは、自然の恩恵にあずかって加工され用いられているもので、全て自分が創り出したものではなく他者から与えられたものですね。
 この命、自然の恵みは、本来「有り難い」ものです。希有なことだと言ってもいいでしょう。これらの命や価値を安易な気持ちで粗末にしたり、無駄にして失ってしまったら「もったいない(勿体ない)」ですよね。
 「勿体ない」は、「有り難い」からこそ大切にしたい言葉であり、古来から日本社会に深く根付いていた「もったいない文化」なんです。そこには、自然で素直な感謝と心からの畏敬の念が湧いてきますよね。
 だから、UTYさんが発信している「もったいないとありがとう、同じ意味かも知れないね」という「きずなエコ」のメッセージは、大量生産・大量消費の生活に浸っている私たちが忘れがちな大切なものに気づかせてくれる「心の警鐘」であり、生活を豊かに充実して生きるキーワードだと思います。
 もの(物)を大切にする心がけ、命を大切にする思いや願い、自然の恵みや資源を大切に生かしあう生活習慣など、「きずなエコ」のメッセージから、私たちができる「もったいない運動」の輪を広げていきたいと思います。ぜひ、このことをご理解いただいて、「意(ウィル)のある人々(ウィラー)」が手をつないでいきましょう。

2010年6月8日火曜日

ルー大柴の「MOTTAINAI」メッセージ

6月5日は環境の日記念事業「環境パートナーシップやまなし総会」と「環境フォーラム in やまなし」が開催されました。

 フォーラムでは、ルー大柴氏が「MOTTAINAIも考えよう~人生マウンテンありバレーあり」という演題で1時間半のおしゃべりをしましたが、大半は自叙伝的な生い立ちから今日までの話題をさいて、後半にやっとNHK「みんなのうた」で話題になったエコソング「MOTTAINAI」にたどり着き、自分が身近な生活の中で行っている実践例を語りました。
 話の中で、当日発行の新聞記事から山梨県で取り組んでいる「エコライフ運動」にもふれ、さらに「もったいない甲斐ネットワーク」作成の啓発資料「もったいない運動のすすめ」に掲載した「私のありがたい/私のもったいない」をタイムリーに引用して紹介されたことは、山梨県的な成果でした。
 期待したほどには「MOTTAINAI」のメッセージが強く伝わって来なくて、時間をかけた割りには「勿体ない」とも思いましたが、まあいいか。いわゆる「ルー語」で軽妙に語る話しも面白かったし、少しばかり彼の浮き沈み人生の悲哀・ペーソスを感じる内容が「人生マウンテンありバレーあり」で共感もあったから、これでよしとしようと思いました。 

 「ルー語」で言えば、この講演をチャンスにして、今日の便利社会の中で当たり前のようにライフしているウィー・我々が、デイリーな生活の中でリットルな気づきとスモールなアクションをすることで、もったいないの心を大切に生きていくモチベーションになればベターでワンダフルではないか。ふわふわと飛んでいく軽い風船もエコ・ムーブメントのためにはラージなアドバルーンになるんだあと、アンダースタンド、納得しました。

 フォーラムに先立って行われた「環境パートナーシップ総会」の閉会の挨拶です。
「なぜ、あなたは山に登るのか」と問われれば、「そこに山があるから」という有名なパンセの言葉がある。今、改めて「なぜ、あなたは環境活動に関心を持って行動するか」と問われれば、「そこに必要があるから」と答えたい。
 環境問題をはじめとする市民ボランティアの活動は、必要(ニーズ)の手をつなぎあい、人とひとの心のきずなを確かめながら、ゆるやかなネットワークづくりをしていくことである。このような思いや願い、目的に向かう意思(ウィル)をもった多様な人々(ウィラー)の輪を広げていくことではないか。という言葉で締めくくられました。
 エコミュニケーションを交わしあい、エコライフを実践する県民運動の推進が大切だと思う一日でした。

2010年5月28日金曜日

さもない話「大人の忘れ物」

大人の忘れ物  http://www.heartandbody.net/

忘れていたよ僕は。
大切なことを忘れていた。

夜更けに睡魔と付き合いながら起きていたんだけど、
ふと耳を澄ますと蛙の合唱だ。
近くの田圃の夜間舞台で鳴いている蛙たちの大演奏会だ。
ガア・ガア・ガア・・・・ゲコ・ゲコ・ゲコ・・・・・・・・・・。
ほら聞こえてくるよ蛙の声だ。
遠い昔の日、少年の頃に聞いた蛙の合唱団だ。
蛍の舞いはまだ早いけど、もう初夏だ。
忘れていた自然の恵みは有り難い。

駄目だなあ僕は。
こんな素晴らしい感性を失いがちな日々ってつまんないよな。
自然に帰ろう。静かに自分を見つめてみよう。
あのおおらかな恵みを与えてくれた自然の懐が懐かしい。
本当に大切なものを忘れていたよ。
ああ、今までいっぱい勿体ないことをしてきたなあ。

トイレに行ったら、蛙の大合唱に驚いた。
ということでした。
さもない話だけど、うっかりしていた「大人の忘れ物」だ。

おかなおし

2010年5月23日日曜日

若老(わかろう)サロンに思う

若い力と老いの知恵をつなぐ新しい絆 ★ http://www.heartandbody.net/

5月22日(土)午後、山梨県ボランティア・NPOセンターで「若老サロン」を開いた。参加者は大学生と大人たち24人(18歳から95歳の年齢幅)の異世代集団で、老いの経験談話や若者からの意見などを自由に交換し会う交流の場は終始和やかな雰囲気だった。

今年で6年目となる「若老サロン」は、今日の世代間格差とかとかく薄れがちな人間関係を確かめあい、コミュニケーションの欠如を補って理解しあうもので、6人一組のグループワークのルールは、①テーマを決めない、②他人の話を聴く、③異なる考え方を否定しない、④結論を求めない、⑤サロンの成果は自分なりに感じた「心のお土産」、といういたって自由でゆるやかな内容だ。

参加した若者にとっては、人生経験豊かな先輩からの話に耳を傾けて聴き、大人たちは自分の失敗や成功の経験から決して説教ではない話題を提供し、同じ人間として話題を広げていく中で、相互に理解しあい、学びあう相互のメリットがある。

「大人は誰もはじめは子どもだった、だが、そのことを忘れないでいる大人は少ない」。星の王子さまの著者サンテグチュペリの言葉のように、大人はとかく自分の過去を美化して「今の若者たちは」と言い、一方、子どもは「最近の年寄りは」と言い返す。そこには「親和の心」が欠如している。
若老サロンは、このような、もったいない世代感覚の不一致を自然に無くしていく楽しい広場だ。

隔月奇数月の第4土曜日の午後行うサロンの特色は、参加した大学生が企画運営に加わって、フレッシュな感覚で進めることだが、今後の継続と発展を期待している。

2010年5月10日月曜日

ロングランの「もったいない運動」

もったいない甲斐ネットワークの仲間へのメッセージ

白川さん
GWも今日で終わりました。僕は何となく過ごしてしまいましたが、健康管理で毎日散歩をしました。湯村山を歩いて約1時間半。朝は気持ちいいですね。でも、夏陽気で少々ばてました。変な天候です。
もったいない運動は、今までの社会的な風潮の盲点だと思います。大量生産、大量消費、消費は美徳・・・への反省からの「エコブーム」ではなく、日本古来の精神文化の欠如を問いかけていく本来の生活に根ざしたあり方が問われているのだと思います。
それは、ひと・もの・いのち・きづな・など、いろいろな形で社会化してきています。
ラジオを聞いてたら、NHKでは「きづな」についてのキャンペーンをしていました。
UTYでも「きづなエコ」を発展的に多様な報道をしています。企画・発信者の渡辺部長の努力の成果だ思いますが、会社ぐるみのイメージはいいですね。金丸社長とも「もったいない運動」への参画を話したところ、本人も関心を深めて協力的な言葉をいただきました。
もったいない甲斐ネットワークのわずかな人数(5人+賛同者)による社会的な提案と行動が、メディアとマッチして幅広く協働の形で発展的に展開していけば、より効果的だと思います。
13日にはYBSで「私のもったいない」をとりあげ、リスナーからの意見などへのコメンテーター?のような形で参加することになりました。
時間は、午後1時にスタジオ入りして、午後3時半頃までの間に、どこかの時間でコメントを入れると言うことです。ですから時間の特定ができませんが、このようにメディアと連携して「もったいない運動」が広げられることは嬉しいですね。
今後は、幼稚園、保育園、子育て支援グループなど、子どもの頃から身「もったいない心」を身につけていくために、若い母親の自覚をうながすような取り組みも必要だと思います。
これから、いろいろ知恵を出し合って、ロングランの運動にいしていきましょう。

2010年5月7日金曜日

長すぎず/短すぎず/いい塩梅

いい加減( Better Degree )の塩梅(アンバイ)は難しいね!

友人と電話をしていたら、僕のブログについて注文がありました。仰るとおりなので、今までの書き方を検証してみました。たしかにそうだ。言いたいことは山ほどあるけれど、文章が長いんだよなあ。
どうしてこうなっちゃうんだろうと考えました。判ったことは、「構え、気負い、決めつけ、落ちへのこだわり」なんですね。
昨年の暮れに、大久保さんのご厚意で始めることができたブログです。さて、タイトルは?投稿者名は?などと考えているうちに、「もったいない広場」(投稿者:牧場の岡)という目的に添わないと駄目じゃないかという「かたち」を意識し過ぎることになったのだと思います。
今から35年前に遡りますが、某新聞社のコラム「ボランティアコーナー」を書き始めた時に言われた言葉を思い出しました。222字という突き出し囲みのコラムですが、「一字一句も余らすな。短歌のようなスペースでも起承転結を忘れるな。」という社長さんのアドバイスです。
そんなくせがついて、最期の落ちや決め手にこだわって、つい長く講釈を並べる結果となってたんだなあと、素直に反省。ご指摘のWさん、ありがとう。

これからは、「有り難い」から「勿体ない」というキャッチフレーズを基本ベースにしながら、その時なりの思いや願い、感想、提言などを綴っていきます。
でも、どこかに忘れてはいけないもの、それは 「 こころ 」 だと思います。
遠い昔に創った言葉ですが、三編ご紹介して明日につなげます。

「 心のポケットに 毎日一つひとつ幸せを入れて、そっと温めておこう。
 そして明日は その一つをとりだして 友だちにあげよう 」

「 日だまりはいいな みんな寄っておいで 」

「 歩み入るひとに やすらぎを 去りゆく人に しあわせを 」

GWの思い出・車いす生活者の1日

友だちのA君は、3歳の時に小児麻痺を患って両手両足に麻痺が残り、それから重度の障害とつき合いながら60年余りを過ごしています。彼は電動車いすを補助具としてどこへでも積極的に出かけて活発に社会活動をしていますが、このゴールデンウィークの1日をつづったメール内容を紹介します。

5月5日、ヴァンフォーレ甲府と柏レイソルのJ2サーカー戦を観に行った。小瀬スポーツ公園まで甲府駅からリフト付きシャトルバスが12時と1時に出ることを確認し、南アルプス市十五所の我が家から竜王駅まで福祉介護タクシーで行き、甲府駅前12時発のリフト付きシャトルバスで会場に着いた。こどもの日ということと晴天に恵まれて、会場は15,600人という大観衆で埋め尽くされて満席の状態だった。
車いす利用者の特別観覧席もあり5・6名が利用していた。バリア・フリー、ユニバーサルデザインの配慮が当然のことのようになされていることは嬉しいことで、サッカー会場にもノーマライゼーションの考え方が周知徹底されていると感じた。
試合結果は1対1のドローだったが、J2トップチームを相手によく頑張った好試合に終わった。

帰りは再びリフト付きシャトルバスで甲府駅へ5時に着き、5時5分発の社会福祉村行きバスに乗って南アルプス市の六科で降りた。そこから十五所の我が家までおよそ7.8キロの道のりを電動車いすで甲西バイパスの歩道を安全運転で自走して7時05分に到着した。
バスを下車してからの走行時間は1時間10分だった。その間、歩道の段差などで時たま人の手を借りるが、自分の意思で行動できることは「有り難い」ことであるし、実に嬉しいことである。地域の中で多くの障害者がどこにでも居る、その姿がある、バスでも電車でも至る所で楽しく闊歩している。そんな住み良い環境を造るのも障害者自身の役目ではないかと思うので、自分はこれからも、どこまでも電動車いすで動いて行こうと思う。そこに喜びがある。

車いす生活者、車いす利用者自身の認識、知識、チャレンジ精神、当事者としての自覚と行動、責任感・使命感などなど、山梨県は全国からみるとまだまだ他人任せでレベルが低いと感じている。4月初旬に東京の霞ヶ関で「バリアフリー・環境」についての全国大会があり、一人で行ってきた。会場には全国から重度の障害者が参加していたが、会場参加者の意見として「当事者の声が大きいほど、道路や建物などの改善・改良・新設の確立が高い」と訴えていたが、そのとおりだと思った。
誰もが、好きで障害のある生活を送っているわけではないが、一生を生きるのは自分であり、一生を変えるのも自分からだと思う。このような生き方の積み重ねから必ず社会を変えていくことが出来るのだから、そのことを自ら実行しないでいることは「勿体ない」ことだと思う。

2010年5月5日水曜日

森の詩(ウタ)

森の中を歩いていたら、道が二つに分かれていた。
そこで私は、今まで通ったことのない道を選んで歩いていった。
するとそこには、全く別の世界があった。

僕が青春時代に出会ったこの詩は、とてもお気に入りの言葉です。人生行路の行く先が見えない、若さが故に出口や方向を見定めることもせずに、曲がりくねった道を歩み始める生き方の選択をした言葉であったように思います。そして、その生き方は今でも変えられそうにないけれど、それは、一般常識とか安全な生き方とかからは少し外れたリスクの伴う世界であったと思います。
だが、僕はある時山梨県ボランティアセンターで、心の病を持った二人の同年輩の女性たちとの出会いからふと思いついて創った詩が「森の詩」でした。そして、それは「受容と共生と平和」を願う僕の生き方を示唆してくれたように思います。
そうか、僕が求めていた道はこれなんだなと納得した言葉つづりです。


              森の詩

人間は 一人では生きていけない
一人が一人に呼びかければ きっと友だちになれる
一本の木も 二本になれば林になる
林が大きくなれば 森になる
いろいろな木々の集まりが 森をやたかにする
森は 何でも すべて温かくつつんでくれる

森に集う人々は みな楽しい 優しい心と愛がある
人間の弱さを知っている人々の集まりである
心の痛みが分かち合える人々の オアシスである

人と人との間に 上もなければ下もない
同じ人間として ともに生きる人々の森である
仲良く 楽しく 美しく おおらかな心で
この自由な森を 大切にしたい

ゴールデンウィークをどうしようかと思いながらどこへ行くという当てもなく近くの湯村山から 昇仙峡方面に向かって小さな森の中を歩いてきました。
さわやかな緑、おいしい空気、明るい太陽の光、どこまでも続く小道・・・・・自然の恵みをいっぱいに満喫した一時でした。
堅苦しい理屈や能書きはいらないが、このような一時を「有り難い」と感謝し、このような幸せに気付くことなく時を安易に過ごしたり、失ってしまうことは「勿体ない」ことだなあと思いました。

2010年3月25日木曜日

ゆっくり・小さく・確かに

スモール イズ ビューティフル ラージ イズ ナンセンス

 市場原理の経済至上主義、結果主義、費用対効果、などなど目に見える大きな結果を出して実証がないと説得力とか社会的信用が得られない世界もある。
 だが、このような実効性を証明できない、計数管理ができない「小さくて見えないが美しい世界」もある。それは、ボランティア精神に根ざした日常的な行為とか、教育、文化、芸術、コミュニティづくりなど、皆で思いと知恵と行動を寄せあってカルチベートする(耕そう・まこう・育てよう)世界であり、社会の豊かさや温かい人間関係をつくっている 「さもないこと」 の地道な営みで目立ちにくいことだ。
 このような世界においては、必ずしも大きいことだけがベストではない。むしろ小さくとも確かなものの意義と役割がある。それらの市場原理から外れた非経済的な価値こそ、実は今日の殺伐とした世相の中では大切なのだと思う。

 最近、「無縁社会」という言葉がクローズアップしている。特に高齢化が進み、超高齢社会をむかえて深刻な問題となっているのが「一人暮らし老人の孤独・孤立」である。地域の中でただ一人だけが小さな社会の中で閉じこもっている。日常の関係の中で、家族や近所の人々などとも疎遠となり、親密に相談に乗ってくれるような人との関わりもなく、明日への不安を抱きながら暮らしている。このような現実があちこちから聞こえてくる現代社会である。
 一人で暮らす孤独な高齢者に対する公的施策は、介護保険で全てのサービスをまかなう仕組みの中で、うっかりすると気が付かずに忘れられてしまいがちな存在として、きめ細かな対策がなされていない ことも多い。
 公的施策を実行する行政の視点が 「公共・公益・公正・公平」 というマクロであればあるほど、最大公約数の大きな解決を急いで完結しようとする傾向にある。だが、寂しい孤独の悩みや生活の苦しみを持ちながら不安な日々を送っている人が、一人でもいたならば、ミクロなことに目を向けて解決の道探しに努力する配慮が必要なのではないだろうか。
 もちろん、「公助、共助、自助」の社会福祉耕造の中で、自分から努力する「自立の支援」が基本であることは言うまでもないが、そこに今ひとつ、もう一歩の支援の仕組みづくりが欲しい。それらの努力をしないで放置している社会は、人間が人間らしく生きることをめざす「もったいない文化」とはほど遠いものになってしまうだろう。

 合理的・効率的で大きければいいという世相ではあるが、今改めて非合理的・非効率的で手間がかかるような小さな営みが大切だと自覚しながら行動することが求められている。
 小さいことは、むしろ真に求められているものを創り出す大切なニーズの基であり、その過程は知恵を出して工夫する楽しい営みである。その結果は人間が生きていくうえでの「安心・安全・幸福」を導くたしかな道であると思う。そして、それは人間ならではの美しい行動であると思う。

「イクメン(育メン)」ってなあに?

平成22年1月31日の朝、NHKテレビで不思議な言葉に出会った。

「イクメン(育)メン」という言葉だ。「イケメン」ではない。

夫は、昼休みを返上してまでも仕事をキチンとこなし、定時になると素早く退社して一路我が家に急ぐ。 家で待つのは愛する奥さんだけではなく、可愛いよちよち歩きの赤ちゃんだ。
一日の仕事の疲れも忘れて赤ちゃんの子守をする夫 は、 赤ちゃんの育児に、「夫が参加 する権利」があり、何者にも代えがたい喜びがあるという。
「ただいま、ばあばあ、元氣だったかと声かけ、お風呂に入る、食事の介助、抱っこのスキンシップ、ふれあい、くつろぎ、遊び、ゆとり、笑顔、膝での眠り顔などなど・・・・・・・ 。」、精神的に充実した一時だ。
このような時間を、夫だから、男だからという理由で創ることができないのは「もったいない」と言う。

妻だけの「お母さん」では、子どもに対して夫としての役割が無く、全く味気なくて、同じ夫婦なのにこれは損だから、赤ちゃんの接する時間を創り、パパとしての幸せを感じよう。そうすることが喜びである。
また、妻の立場からもも自分だけが子どもの「お母さん」に振り回されていては、家事の余裕がない。
赤ちゃんの子育てに生き甲斐と喜びをもって参加する夫と、 そんな夫に、育児を自由に任せて家事に専念する妻は精神的な余裕ができて、双方共に喜ばしい話しである。
あっちも、こっちも皆がいい状態で、幸せ家族がそこにあり、心の平安と安息がある。 一昔の時代では考えられない、現代版の夫婦のあり方とともに、男である、女であるなどという価値観にこだわることなく、幸福感や充実感を求める考え方変が変わってきているのだなあと思う。
何よりも、テレビの中で主張していた、「夫だからと、仕事が忙しいからという理由で、赤ちゃんとふれあう時間が創れないのはもったいない。」という言葉が印象的だった。

現代の日本社会は、物が有り余るおど豊富で豊かなはずなのに、 心のふれあいとか、充実感や満足感、幸福感がない。どこかに不満を感じている。 子どもの育児を通して、その成長過程を見る楽しさ、喜び、夢、希望、期待、親ならではの与えられた心の充実感など、これらの精神的喜びを感じなければ、 父親として「もったいない。」と思う本音であろう。
会社に忠誠を尽くした会社人間、仕事の鬼、仕事一筋の生き方が男の本領であり男の最高の価値であるという時代が変わりつつある。
父親参加の新たな育児のあり方が変化しつつ、重視されている昨今のように感じた。

ESD・関東つながり会議開催

ESDって、僕らのめざすことと同じだね!!


関東ブロックESD「ブロックミーティング」が、去る3月23日に東京都渋谷区の国際大学内・地球環境パートナーシッププラザで開催されました。

当日は関東圏の10都県(茨城、栃木、群馬、埼玉、千葉、東京、神奈川、新潟、山梨、静岡)から参加者が日頃の活動事例を持ち寄ってリレートーク方式で発表し、その後小テーマごとにグループワークにより情報交換をしました。
平成17年から「国連持続可能な開発のための教育(ESD)の10年」がスタートし、我が国においても関係省庁連絡会議において「地域におけるESDの先進的な取り組みの支援」が重点的に取り組まれています。
今回の企画は、一般社団法人環境パートナーシップ会議が主催となって開催しました。10都県の参加者として「もったいない甲斐ネットワーク」も事例を発表しましたが、なぜそうなったかという経緯は、主催団体から山梨県ボランティア協会に問い合わせがあったことから始まった話です。

各都県の事例は環境問題や地域づくり、学校教育などと多岐にわたっていましたが、山梨県の場合は「何をしているかという活動そのもの」よりも、「もったいない文化づくり」という精神的な啓発運動の性格が強いことから、他の事例とは若干違和感もありました。しかし、グループワークなどの中で、「生きている命や自然の恵みは有り難い。その価値を失ったり無益にしてしまうことは勿体ない。」という山梨発のメッセージに、皆さん共感してくれたように思います。

ESDとは、「持続可能な開発のための教育」(Education for Sustainable Dvelopment)の略称ですが、我が国のESD10年実施計画では、ESDを「一人ひとりが、正解の人々や将来世代、また環境との関係性のなかで生きていることを認識し、行動を変革するための教育」と定義しています。
参加にあたって、少し堅苦しい違和感を感じていたのは事実ですが、会議のPR文に、毎日の生活の中にある「困ったなあ・・・」や「もったいない・・・」を解決しようと関係者が相互に連携・協力し、よりよい社会をめざそう、という趣旨には賛同できました。
ESDそのものへの理解はまだまだ一般的に浸透していないように思いますが、言葉の表現の差はあっても、めざすところは同じなんだなあと思いました。

山梨県における「もったいない運動」も、みんな当たり前のように思っていてもいざ実行となると難しい一面も持ちながら、でも、誰かが言い出していかないと何も始まらない。その誰かになる「意のある人」を一人でも多く呼びかけて行きたいと思います。
今回の会議に参加して、山梨県の取り組みが決して間違っていないどころか、精神文化の退廃している今日の世相では必要不可欠の運動だと確信しました。
みなさん、一度に10人、100人を望むのではなく、身近な周りの一人ひとりに思いを伝えていきましょう。それが、地道な草の根の「もったいないボランティア」の道だと思います。 

目標をもって生きる

人生は出会いであり、その出会いは特別な人にしかやって来ない。しかも、その出会いは、あなたの人生で二度とやって来ない。

僕は、山梨県ボランティア協会の仕事を通して多くの方々と出会ってきた。それらの出会いから多様な視点で多くのことを感じ、学び、身につけてきたことに感謝している。
特に、中国の沙漠緑化を提唱して実践した日本沙漠緑化実践協会の創設者である遠山正瑛先生との出会いは強烈なものであった。そして、遠山先生の限りなきフロンティア精神は僕の心の支えとなっている。

遠山正瑛先生は、明治39年12月14日に山梨県富士吉田市新倉の大正寺に生まれた。日川中学校(現・日川高等学校)から京都大学を経て鳥取大学農学博士として、日本で初のスプリンクラー使用により不毛の地であった鳥取の砂丘開発を成功させた。
退官後、83歳にして中国沙漠緑化に命を賭けて、平成3年に日本沙漠緑化実践協会を設立し、中国内モンゴル自治区での緑化活動を推進した。 遠山先生は、それらの沙漠緑化活動は「世界平和への道である」と確信して命がけで積極的に活動を展開したが、その間多くの「遠山語録」を残した。

○人間は、夢と希望がなければだめだ。目標のない生き方は虚であり、空しい生き方だ。朝が夜になるだけでは人生の意味がない。

○人間は、何のために生きるか。この世に生を受けたからには、自分だけの利己的な生き方では勿体ない。利他共生こそ人間の道である。だから、誠心誠意、他人や社会の役に立つ生きかたをしよう。

○一木一草。一本の木を植えなければ森は育たない。一本の草を植えなければ、草原は広がらない。 たとえ小さくとも、ゆっくりでも、一歩一歩の努力が生活を変え、人生を変え、世界を変える。

○人間は、考えることも大切だが、考えてばかりいては何も始まらない。考えたら行動することが大切なことだ。「やればできる。やらなければできない。」・・・。などたくさんの言葉を残しました。

平成16年2月27日、遠山先生は97歳の生涯を終えられた。「沙漠開発は世界平和への道」と提唱し実践した先生の遺徳と功績は永遠に語り継がれ、日中平和外交の重要な環境開発事業として継続されるだろう。同年8月20日、先生の遺骨は、ポプラの茂る沙漠に建立された墓に納められた。
中国政府は、遠山先生の功績を讃えて、平成11年8月16日、沙漠に先生の銅像を建立した。人民日報の記事によると、生前に銅像を建てられたのは、かの有名な毛沢東と東山先生だけだそうだ。
そして、平成16年8月20日、中国内モンゴルの沙漠に遠山先生の墓碑が建てられたが、墓碑を収めた立派な「遠山廟」とともに、遠山先生の偉業の数々を収めた沙漠記念館も建てられた。
遠山先生のモットーである「やればできる。やらなければできない。」という言葉とともに、地球の約三割弱の沙漠を放置していては勿体ない。これらを有効活用して食糧問題を解決することが世界平和への道であると説いた遠山先生の言葉を決して忘れることはできない。
我々が日常生活の中で当たり前に思っている「命や自然の恵み」は有り難いことである。これらの恵みに畏敬の念をもって感謝し、それらの価値を活かして平和な創造していかなければ勿体ないと思う。

○人間は何のために生きるか。与えられた命や自然の恵みを、人類のために有効活用してこそ、真の幸福や平和が実現できるのではないか。そのことに気づかずして無益に生きることは「勿体ない」。
今は亡き遠山先生は、このようなことを願い、伝えてくれているのだと思う。

2010年3月22日月曜日

タイム イズ パートナー

先日、甲府の舞鶴城公園を歩きました。春めいてきたので久方ぶりの散歩です。
植え込みの中を「モンシロチョウ」が舞っていました。 「ああ、春なんだなあ」という実感が湧いてきて、ふと見回すと桜の花が咲いていました。
この冬、僕は冬眠していて、いつのまにか春の訪れが告げられたのに気づかなかった。 そんなに忙殺されるほど忙しいのでもないのに、僕の周りに目を向ける心のゆとりがなかった。怠惰な気持ちの中で揺れ動いているだけだった。

「タイム イズ マネー」という言葉があります。時は金なり、一時も惜しまず金を稼ぐ、 そういう生き方もありますよね。その年代、その時々で、それはそれでいいですよね。 でも、今の僕にとって一番大切なことは、「タイム イズ パートナー」ではないかと思う。

桜の花も、タンポポも、沈丁花の花も、チョウチョや鳥たちも、空も、雲も、風も・・・・・。
みんな自然(とき)を知っている。なのに、僕は自分の身の周りのことで振り回されていた。自然が移り変わって陽気な春が来たのに、自分の心の内面を見つめることは決して悪いことではないけど、憂鬱な状態で逃避的な生活をしているのは不健康で、「もったいないなあ」と思った。
よし、春が来たぞ。僕の心にも春風がそよいでいる。遙か甲斐の連山にも雪が少なくなってきた・・・・。豊かな大地に恵を与えてくれる自然が変化する流れの中で生き、その日、その時、その時間の中の自分を大切にしていこうと決心した。

「タイム イズ パートナー」・・・・・「一つひとつの出会いの時の中に、ともに生きる喜びがある。」
30年も前に僕が創った言葉だが、今改めてその言葉の命を吹き返し、思いを確かめ、新しい何かが始まろうとしている。 その時、その時を大切にしなければ、「もったいないよなあ」と、思うこの頃です。

もったいないフォーラムリポート

フレッシュな高校生の開会挨拶から始まった第2回「もったいないフォーラムinやまなし」を、平成22年2月27日(土)午後1時~4時まで開催しました。(101名参加)

「皆さん、こんにちは。私は、山梨県ボランティア・NPOセンターに集う若者たちが活動している甲斐縁隊代表の宮澤安奈です。私は、もったいないという言葉が好きです。皆さん、出会って、語り合って、笑顔があって、そして喜びを分かち合わなければもったいないですよね。短い時間ですが、たくさんふれ合いましょう。」と、高校生の明るい言葉に誘われて、会場は和やかな雰囲気の中で、5人の中身の濃いリレートークを踏まえて活発にグループワークをしました。

5人のトークの内容は、「もったいない五つの視点」

① もの(物)を大切にする生活・・・フードバンク代表 米山けい子さん
② 共生の命・心・人の出会いの縁を大切にする生活・・・自立支援・福祉団体代表 芦沢茂夫さん
③ 自然の恵に畏敬の念を持って感謝する生活・・・北杜市クリーンエネルギー協議会会長 篠原充さん
④ 日本の生活・伝統文化を大切にする生活・・・工房「花筏」主宰 遠藤静江さん
⑤ 健康であることに感謝する生活・・山梨ダルクスタッフ 毛利学雄さん
   *コーディネーターは、エフエム甲府常務理事の川崎博さん

 メインテーマの「もったいない運動」をすすめるため、「有り難い」から「勿体ない」という基本的な考え方を皆で共有し、古くから日本人の生活に根ざしていた「もったいない文化」を再発見、再創出するためには、このような小さなこじんまりした話しあいが大切だと思います。
6人1グループに分かれた話しあいは、あたかも井戸端会議、昔の良き田舎の寄り合いのようなイメージで、全ての人が語り手で、全ての人が聞き手となって活発に話し合われ、いつ終えるかも分からないくらい燃え上がりました。
 最期に、参加協力してくれた高校生たち7人が壇上に立って、一人ひとりの感想を語りました。一人の高校生は、「明後日は高校の卒業式だけど、高校生活3年の中で一番充実した時間だった」と語っていました。高校生活最期の体験が、社会へ出ていくための大きなエネルギーになればいいですね。

アンケートもたくさん書いてくれました。いろいろな意見が寄せられています。「環境」「エコ」「3R運動」など環境問題への関心が高まっている中で、今こそ、その根底にある、「有り難い」から「勿体ない」という考え方を広げていく必要があるように思います。

「命」や「自然の恵み」は「有り難い」ことです。当然のことのように思ってる今日的な風潮ですが、それらを安易に失ってしまったり、無駄にしてしまうことは、やはり「勿体ない」のです。
「勿体ない」ということは、ケチでもなければ、ただ単なる省エネ、省資源の現象ではないこと、むしろ、与えられた命や自然の恵みを積極的に活かしあってこそ、本当の価値創出の喜びや生き甲斐につながるのではないでしょうか。

これから「もったいない運動」を進めるための三つの心得「き・お・い」

①決めつけない  ②押しつけない  ③急がない 
 

2010年2月25日木曜日

「もったいない」の考え方を考えるー3

本を読んでいたら、素敵な「もったいない」に出会いました。

もったいない(勿体ない)とは、仏教用語の「物体(もったい)」を否定する語で、物の本来あるべき姿が無くなるのを惜しみ、嘆く気持ちを表している。
もともと「不都合である」、「かたじけない」などの意味で使用されていたが、現在では一般的に「物の価値を十分に生かし切れておらず、無駄になっている」状態や、そのような状態にしてしまう行為を戒める意味で使用される日本語の単語である。(出典:フリー百科事典「ウィキペディア」)

この言葉に出会って考えました。私たちが「もったいない運動」を進めている中で、だんだん気づいてきたことは、「有り難い」からこそ「勿体ない」 ということです。
この二つの言葉の関連性が織りなされながら 「もったいない文化」 が創られていくのだと思います。ものを無駄にしない、節約する、大切にするという日常行為の現象の源流で、本来有り得ないこと、およそ得難いもの、自分の力ではまかなえないことが可能になることなど、「有り難い」ことが自らの身近に訪れてくる、実現することへの「感謝」や「畏敬の念」があるからこそ、それらを失うこと、無くすこと、無駄にしてしまうことが「勿体ない(もったいない)」という気持ちが湧いてきて、これらの日常的な営みの繰り返しの中から「もったいない精神」が醸成され、修得されてくるのだと思います。
だから、大人から子どもたちへの 「もったいないの心のメッセージ」(しつけの教育) が必要ですよね。
 
「もったいない」とは、省資源、省エネルギー、節約などの言葉に総称されるように、「有り難い」ものの価値を持続可能な状態で保全するという受動的な側面と、さらにせっかく具現化している「有り難い」ものを活かし、さらに価値を創出して高めていこうという能動的な側面があるように思います。

「有り難い」ものの存在を自覚し、その恩恵に感謝しながら、自然との共生、生活文化、地域や故郷の人間連帯 、心のふれあい、家族の絆、健康など、すべての状態をさらにより良くし、向上させようとする 「意思(ウィル・Will)」 を確かめながら、身近で自分ができることをする、そしてその思いや願いを社会に発信・提案していく、草の根の「もったいないボランティア」の輪を広げていきたいと思います。

2010年1月31日日曜日

新年会での「もったいない」談話

先日、日川高等学校の同級生が一足遅い新年会をし、20名ほどのメンバーが集まり、久しぶりの親交を深めました。 酒の勢いか、懐かしさか、言いたいことを言って賑やかな一時をすごしました。
僕は当番幹事だったので、はじめの頃の受付や会の盛り上がりに気を配りながら、だんだん雰囲気にとけ込んで酒を飲み、語りました。受付では予め「第2回もったいないフォーラム」のチラシを名刺代わりに配りました。雰囲気も盛り上がった中で、チラシを見た彼女、彼らが言いました。
「受けた命は有り難い、それを失うことは勿体ない。それはそうだよな。」
「戦前生まれの俺たちは、貧乏だったから、もったいないなんて当然だったよな。」
「そうだよ、その通りで、孫たちにもいつも言っているよ。」
とみんな「もったいない運動」に賛同してくれました。

「もったいないぞと親から言われて育った俺たちが、今度は孫たちに口うるさく言う年代になったなあ」と彼。
「おい、俺もそう思うよ。」と、今までボランティアなんて特殊人間のすることだと言っていた彼。「今日のご馳走は残しちゃあだめだぞ。」と力む。
「私も、もったいないばあちゃんと孫に言われるけど、いいんだよね。 27日のもったいないフォーラムには参加する。」と申し出る彼女。
「だいたい、50年前に高校で出会った俺たちがだよ。こうして会えるのは有り難いよなあ。仲良くしないで喧嘩別れなんかしたらもったいないよ。」 と彼。
「おおおい、みんな、やろうや。」などと言わないのに、思わぬ反響が嬉しかった。
誰もが語り、誰もが楽しみ、和気あいあいと過ごした新年会も終わった。

食事も、酒も、会話もみんな楽しかった。何よりも嬉しかったのは、もったいないという当たり前のことを 酒の席で語り合い、確かめあい、生活の中で行動する気持ちを大切にしようという雰囲気だった。
みんなが三々五々と帰った後、宴会の席はガランと静かになった。テーブルの上には宴のあとの 残骸 が残されていた。だが、刺身も煮物も鍋物も、酒もビールもすべて食べ尽くし、飲み尽くしてあった。
身近な新年会のできごとである。思い切って「もったいない」という言葉を発信してよかった。
これからも 折にふれて勇気を出して言っていこうと思う。
ただし、「ねばならない強制のもったいない」ではなく、「したほうがいいよなあ」という「お誘いのもったいない」運動が望ましいと思う。

2010年1月29日金曜日

「弁当」 か 「おにぎり」 か 思案どころ

「パック入り弁当」 か 「バラのおにぎり」かどっちにしようか??

1月26日夜、山梨県ボランティア・NPOセンターで第2回もったいないフォーラム
の実行委員会をしました。全体計画の確認、当日までの準備、マスコミへの依頼
やEメール発信(知人への転送方式)、会議やイベントなどでのチラシ配布、人か
ら人への口コミなどのPR、当日運営の役割分担・・・などなど を決めながら、
最期に当日の打ち合わせや協力スタッフの昼食のこととなりました。

当初は弁当○○人分ということでしたが、さてそこで実行委員から待ったがかか
りました。
「幕の内とか、パック入りの弁当は数を確定しなければならないから、何人分と予
測するのが難しい。足りなければ困るし、余らしてしまってももったいない。」
「それならば、数を固定する必要のない、おむすびにしたらどうか。余ったって若
い人たちに食べてもらえばいいし、お土産で持ち帰ることもできるじゃあない。」
「それじゃあ、実行委員会にかかわっているメンバーで手作りおむすびにしたらど
うだろう。米は持参し、会場の調理室でつくったらどうか。」・・・・・「全員賛成」。

イベントをするときに頭を悩ますのが「食事」です。
弁当屋さんから調達することに慣れてしまっていますが、「足りなかったら困る」
という思いで多めに注文し、結果的には実行委員などが持ち帰ることになってし
まう。時間をおいて冷え切った弁当がおいしいはずはないよね。
そこで登場するのが「おむすび」です。
おおむね何個としておけば柔軟に対応できる。集まった頭数で分けあって楽しく
食べられる し、老若男女、それぞれに食数も異なるからほどほどに行き渡って
悩むこともな い。 弁当だと好き嫌いがあったり、何やかやと余らしてしまうこと
もあるが、おむすびは余すと ころがなく合理的である。

と、まあそういうことで一件落着したが、これも一つの「もったいないアイディア」
です。何よりも、心をこめてつくってくれたおむすびはありがたいですね。
おむすびは、必要に応じて食べるから無駄もなければ捨てることもない、実にも
ったいない生活にふさわしい食べものです。改めて見直しました。

2010年1月26日火曜日

「UTY環境キャンペーンきずなエコ」

テレビ山梨 「UTY環境キャンペーンきずなエコ」

URL [ http://kizunaeco.blogspot.com/ ]


     ~ 子どもの歌声が社会を変える ~

キャンペーンソング 「 むすんで つないで きずなエコ 」

                作詞 渡辺雅夫/作曲 伊藤薫

大地と海に つつまれて
命は「 ヒト 」に なったのさ
みんなと 地球を むすんでる
つないだ きずなは エコロジー
むすんで つないで
きずなエコ

もったいない の アドバイス
ありがとう って かえします
もったいない と ありがとう
おんなじ 意味かも しれないね 
えがおが うまれる
きずなエコ

むすんで つないで わになって
みんなの 地球を かこもうか
世界の 子どもを むすぶのは
ひとつの 空気と 太陽だ
つないだ こころは
きずなエコ

放送開始    平成22年2月8日(月)から

放送予定時刻 

 ①フルコーラス篇(90秒)  
  月曜~金曜  ・朝6時30分頃 ・朝7時00分頃 ・午後3時55分頃 
 ②テーマ篇(15秒/歌詞のテーマ部分)  
  月曜~日曜  ・早朝から深夜まで1日6回放送

           ◆キャンペーンの理念とメッセージ◆ 

 ○人間関係の豊かさこそが社会の基本であるとの理念に立ち、人と人、
   人と社会をむすび、今日を明日につなぎます。

 ○「きずなエコ」 とは 「生かされている命」
    ・山梨県民とともに 「人と地球環境との正しい関係」 を考 えます。
    ・山梨の子どもたちに 「人・もの・命を大切にする心」 を伝えます。
    ・暮らしの中の日常的な会話の中で、
    「もったいない」 と 「ありがとう」 のきずなをむすび、 つなぎます。

 ○「もったいない」 を実践している人を見つけたら、
   「ありがとう」 の言葉をかけてください。
   ホラ、そこに 「きずなエコ」 が生まれました。

コメント

 テレビ山梨「UTY環境キャンペーンきずなエコ」は、
  私たち「もったいない甲斐ネットワーク」が進めているもったいない運動と協働して
 取り組んでいます。
 マスメディアと市民活動が確かな手を結び、「ありがたい」 と 「もったいない」
 の心を育む精神文化を創る県民運動に発展する ことを願っています。

2010年1月23日土曜日

人生峠の分かれ道

昨夜(1月22日)深夜の時間つぶしに言葉遊びをしました。


人生峠の分かれ道  老若男女の悲喜苦楽

道に迷えば道を知る 歩いたところが道になる

あの道 この道 行く道は 通り直しのできぬ道

急がず 構えず 諦めず 右に左に 前向きに

未来に続くこの道は 歩いてみなけりゃ わからない

逃げてしまえば それまでよ

希望の道はすぐそこだ  明日はきっと晴れるだろう

やればできると信じつつ  もったいないから生きる道

人生峠は 長い旅 いろいろあるから楽しいな

2010年1月22日金曜日

「もっったいない」の考え方を考えるー2

「もったいない」の語源・由来は・・・・惜しい、おそれおおい、などなど

もったいないは、和製漢語「勿体(もったい)」を「無し」で否定した言葉。
勿体の「重々しさ」「威厳さ」「構える」「カッコウをつける」などの意味から、もったいないは「妥当ではない」「不向きだ」といった意味で用いられていた。
転じて「自分にjは不相応である」という意味になり、「ありがたい」「粗末に扱われて惜しい」など、もったいないの意味は広がっていった。

また、「勿体」は本来「物体」と書き、「もったい」と読むのは呉音。
「物の形」「物のあるべき姿」の意味から派生し、「重要な部分」「本質的なもの」の意味となった。
さらに、重々しい態度などの意味に派生し、意味が離れてきたため「物」が省略され、「勿」という表記で和製漢語の「勿体」が生まれたとされる。

これらの経緯から、「惜しい」といった意味で用いられる「もったいない」は、「本来あるべき物がない」という意味で原義に戻ったようにも思えるが、「もったいない、お化けが出るぞ」などと言われるように、「神聖な物」「重要な物」を粗末にする意味が含まれるため、「勿体」の意味が転じた流れによるものと考えられる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・以上は、「語源由来辞典」の内容です。

もったいないって幅広く深い言葉ですね。

 昭和20年代の終戦時代は「もったいない」が生活の中でごくごく普通に使われて日常用語化していた。今でも懐かしく思い出される言葉ですが、食べ物を残せば叱られ、生活用品を粗末にすれば怒鳴られて、「そんなことしたらもったいない。このバチ(罰)あたりめ」と真剣に怒られた。
 終戦後の時代は物のない時代でしたから、着る物は母の手作り、食べ物は米麦野菜が主流の質素な状態でした。みんなが貧乏だったけど、限りある物の価値を粗末にしてしまわないで一所懸命に節約生活に耐えて努力して工夫したものです。
 養蚕や蔬菜などで得たお金は少しでも蓄える親の姿は痛々しいほどで、今時の金満飽食の世相では
考えもつかないほどです。でも、村のこととか公のためとか子どもの教育のために必要な時はケチらずに使っていました。

 節約とケチはちがうんです。ましてや、金を貯め込むことだけが趣味の拝金主義の吝嗇(リンショク)とは本質的に異なっています。勿体ない、節約と言うと「貧乏くさい・ケチ」の代名詞のように思われている時代ですが、どこかが間違っています。
 勿体ないとは、与えられた命や自然の恵みに謙虚に感謝して大切にすること、節約とは無駄を省きほどよく切りつめることで、むしろ今ある物の価値を活かして有効に活用することで精神的には豊かで充実感のある生活を創造することだと思うのです。物を大切にし、それを活かしながら前向きに生きるその行為の向こうには、夢と希望と価値あるものを創出する目標のある生き方だと思います。

 これらのことは、上記出典「語源由来辞典」の言葉からも推察できます。今、改めて「居ること・在ること」「有ること」の「有り難さ・在りがたさ」に気づき、謙虚に感謝して生きること、むやみやたらと無意識に粗末にしたり、捨ててしまうことの「勿体なさ」の根源に、有り難いことへの感謝の心を呼び起こし、より精神的に充実し豊かな生き方を求めていくことが大切ですね。
そんな時代の意識を持ちながら、「有り難い」と「勿体ない」を結びつける暮らしを工夫したいものです。

特に、自殺者の増加傾向や単純に人を殺めてしまう昨今の世相で思うことは、
「受けた命は有り難い。せっかくの命を失うことは勿体ない。」
このことの大切な意味を、子どもたちに自信を持って伝えられる大人になりましょう。

「もったいない」の考え方を考えるー1

2009年2月28日に行った「第1回もったいないフォーラム in やまなし」で、パネラーの皆さんが語った「もったいない」の考え方を要約しましたのでお伝えします。

 一言に「もったいない」といっても、人それぞれの立場や多様な視点、見方、考え方がありますね。    「有り難い」と思うことと「勿体ない」ということは関連性がある思います。これらの「有り難いことを失うことは勿体ないなあ。」という受動的な面と、「有り難いことを創り出す喜びがある。そのことに気づいても何もしないでいることは勿体ないから行動しよう。」という能動的な面があるように思います。

あなたの「もったいない」はどうでしょうか?

◆我が国にはリサイクル、リユースの文化が根付いていた。特に江戸時代は素晴らしい循環型の社会があったようだが、今日は安易な使い捨て文化となっていることは残念だ。 「もったいない」とは物を大切にすることは勿論、再生し分かち合い人々が連携していく行為と同時に「他を思いやる」「足を知る」という心の問題でもあることを改めて考えたい。<山梨ことぶき勧学院大学院学院長 数野強さん>  

◆日本では、毎年3万人以上の自殺者がいる。尊い命をなぜ自ら亡くしてしまうのか。あまりにも「もっ たいない」ことである。この原因は、心より物を優先してしまったところにある。  今こそ社会全体が立ち止まり、「知足」を知ることである。森羅万象全てが孫からの借りものである。「何をしてくれるか」と社会に欲求するのではなく、自分以外の誰かに「何をしてあげられのだろうか」という利他の心が、「もったいない」精神の根源となる。 <高野山真言宗宝寿院住職 広瀬義仙さん>

◆ワンガリー・マータイさんが国連で提唱された「もったいない」という考え方は、現代人に対する警鐘だと思う。「ものや命を大切にする心を育もう」と訴える活動や報道を今後も続けてみんなが連携したPR、社会への働きかけの強化が不可欠であると思う。。 今後は、もったいない運動を「知っている」から「している」暮らしへと、一人ひとりが身近なところで心のチェンジを心がけることが大事だと思う。
<山日新聞社編集局次長樋口幸徳さん>

◆戦前生まれの私の生活の中で「もったいない」は念仏のようにいつも聞かされ、諭されて来た言で、食べ物はもちろんのこと衣類も編み直し、仕立直しなど知恵と技を使って暮らしていた。だが、いつの頃からか「買った方が安い」という言葉のもとにその暮らしぶりは変わってしまった。 もともと「ありがたい・大事にしたい」ということを経済的な面だけではなく、心・情緒・精神文化の醸成という方向につなげたらよいと思う。<東京エレクトロン韮崎文化ホール理事長 林紘子さん>

◆牛乳パック回収が始まった大月市「自主グループたんぽぽ」のメンバーとして回収運動に関わっていた。容器包装リサイクル法制定のきっかけになったとも思われる運動から発展した「もったいない運動」の灯を絶やすことなく、人と人との関係やネットワークづくりをさらに進め、ものや命を大切にする心を育み行動していきたいと思う。  <もったいない甲斐ネットワーク副代表 白川恵子さん>

◆「もったいない」という言葉が死語のようになって久しい。もったいない世代で育った私は心 の中では「どこかおかしいぞ」と理不尽を感じながらも、「もったいない」の言葉を使うたびに「ケチな人」と思われるような気がして、世の風潮に流されてきた自分を反省している。子どもたちに何かを伝えていかねばならないと思う。  <子育て支援団体ハッピーキッズ代表森澤昌子さん>

2010年1月9日土曜日

「有り難い」から「もったいない」

「もったいないと言うと、とかく説教じみたり、古くさいとか、ケチなどと決めつけられがちです。ましてや大量生産で物に溢れた今の日本では「消費は美徳」などという言葉が横行しているのは残念ですね。
しかし、太陽、空気、水や天然資源など自然の恵みを受けて生きていること、そして共生の命を大切に、優しく行動する人間関係に支えられて生きていることは「有り難い」ことです。
 もし、これらがなかったらどうでしょうか?

 「有り難い」の語源は古く、中国から伝授された古典「人の生をうくるものは難く、死すべきものの命あるも有り難し」(法句経)からきているそうです。
このようにあることが稀(まれ)であり、めったに例がない有り難いことを享受する感謝の心が大切で、それを失うことは本来あるべき状態が消滅して、せっかくの機会を与えられて創り出した価値を損なう「勿体(もったい)ない」ことだということを、改めて考えたいと思います。

 「もったいない」という言葉は、このような考え方に根ざした生活習慣の中から日常用語化し、自然に対する尊敬の気持ちや人間同士が大切にしあう心配りから日本的な精神文化を形成してきたと言えましょう。

受けた命は有り難い その命を失うことは勿体ないのです。

このことは、生活全般にわたって共通する基本的な考え方ではないでしょうか。
考えてばかりいては何も始まらない、何も価値あることが創れない。
だからこそ、気づきから一歩踏み出して行動するボランティアが求められています。
「もったいないボランティア」なんて言葉はないけど、
このような意識「Will(ウィル)」をもって行動する人々「Willer(ウィラー)」の輪を広げましょう。

誰でもできる「もったいない」活動事例

「もったいない」って面倒じゃあないよね。誰でもできる暮らしの中の心がけです。

◆もの(物)を大切にする生活から
  ○食べ物を粗末にしない 
  ○3R(リデュース-削減、リユース-再使用、リサイクル-再資源化・利用)

◆共生の命・心・人の出会いの縁を大切にする生活から 
  ○人間関係・コミュニケーションを大切にする ○命の尊さを守り、支えあって
    ともに生きる

◆自然の恵みに畏敬の念をもって感謝する生活から
  ○太陽の光と熱  ○清浄な空気  ○安心して飲める水  ○緑豊かな大地

◆日本の伝統文化を大切にする生活から
  ○礼儀作法・マナーを身につける  ○おじいちゃん・おばあちゃんの知恵を伝
   える交流  ○暮らしの中に根付いた地域の伝統文化  ○歴史的な文化財

◆健康であることに感謝する生活から
  ○体に有害な食を避ける  ○大麻などの薬・ドラッグの害で心身を犯さない

  これらは、身近な生活の中で誰でもできる「もったいない」活動の一例です。

もったいない運動の呼びかけ

私たちは、2006年7月に山梨県甲府市で開催された「第20回牛乳パックの再利用を考える全国大会」での提案を受け、翌年5月に「もったいない甲斐ネットワーク」を発足させ、環境、福祉、教育など多様な視点で「もったいない」の心がけを伝えあう運動を進めています。

 ケニアの元副環境相ワンガリ・マータイさんが国連で提唱した「MOTTAINAI」は、今や世界に広がる環境活動のキーワードですが、その発祥の国の日本で古来から受け継がれてきた「ありがたい(有り難い)」から「もったいない(勿体ない)」という精神的な風土の良さを再認識し、「物と心の調和」を図る生き方として「有り難い」と「勿体ない」を結ぶ活動を行っていきたいと考えております。

 今日の世相は、経済至上主義のもとに大量生産・大量消費・大量廃棄の仕組みの中で金満飽食の生活を当たり前のように享受し、何不自由なく暮らしています。 しかし、物質的には豊かであるはずなのに幸福の実感が乏しく、どこか心の隙間の空しさに悶々として、右往左往している人が多いのは何故でしょうか。 また、いじめ、自殺、殺人、虐待など、与えられた命の尊さに気づかず利己的で刹那的な行動が横行し、その解決のための決め手が見つからない不安定な状況にあります。
 このようなことは、実に「勿体ない」ことです。一人では生きていけない人間だからこそ、自然、環境や人間との関わりが「有り難い」ことに、気づいて感謝する心があれば、むやみやたらと「もの(物)」を粗末にしたり、命を軽んじることはないでしょう。先達が築いてくれた物質文明の恩恵に感謝しつつ、物の豊かさと心の豊かさがバランスよく作用して、安全・安心・平和な社会を創るために、「有り難い」から「勿体ない」ことの意味を確かめながら日常生活を見つめ直したいと思います。

 私たちは、このような「思いと行動」を持ち寄って、人・もの(物)・命を大切にする心を育み、自然の恵みに感謝しながら身近でできることを広げて行きたいと願っています。 ぜひ、一人でも多くの方にこの趣旨をご理解いただき、ともに「もったいない運動」の輪を広げましょう。