何か大切なことをし終わった時にそれっきりではなく、その後も胸にそっとしまっておきたい。心に余韻として残したい…。 それは人の出会いであったり、ふと見上げた大空の青さ、流れゆく白い雲であったり・・と 何気ない一つひとつの出来事がとても大切に感じます。
先日のNHK番組 「ニュース7”おもてなし”で世界を狙え」 を見ながら考えさせられました。日本人の茶の湯の文化「おもてなし」は、現代の画一主義、合理主義、結果主義の企業感覚、市場原理では計り知れない重みと深みのある日本人の心の源流であるように思われます。
企業抗争の激しい世界の市場で、今改めて日本人の「おもてなし」が問われており、経済的合理性に対抗しうる「物からこころ」の時代に相応しい言葉であるということ、しかも世界に通用する誇れる日本文化として気づき再創生し、価値を高め育てていく必要がある、というような内容でした。
番組を見ながら、この考え方は「もったいない運動」と共通しているなと共感しながら、ふと最近会った二人のことを思い出しました。人間は、一期一会の縁から始まり、逃れようもない必然的な縁の別れとなります。
一人は、母方の遠縁の方で、僕とは血のつながりはない、本来の縁者の奥さんなんだけど、その縁者に関する親戚関係はほとんど他界してしまいました。だが、なぜか彼女は身内のように親しく思えて、山梨県ボランティア協会の会員にもなってくれていました。その会費を届けるために、電車に乗り、猛暑の中を山梨県ボランティア・NPOセンターまで老いた足を運んで来てくださったのです。
「だんだん、お互いに寂しくなりますね」と言って別れた彼女をセンターの入り口で見送りました。ボランティア通りを歩いていく彼女の姿が見えなくなるまで見送りましたが、彼女もまた名残が尽きない感じで振り返り、会釈をしてまた振り向きながら道門を曲がって行きました。
彼女の姿が遠く消えるまで見送った僕は、「そうだ。これが余情残心」なんだと胸から沸き上がるような温かさを感じました。
もう一人は、父方の親戚で、大阪で会社経営している偉丈夫な従兄弟でした。昨年6月に僕の母が他界した時にも来れなかった。気になりながらつい機会をつくれなかったが、思い切って仏前で祈りたいということで来ることにしたと、遠路大阪から車を運転してやって来ました。
10時来訪の知らせがあったので、僕は男だてらに慣れない準備をしました。お茶の用意はできていたので、玄関前を水で清め、花を水で潤わせ、家中の窓を開けて涼を呼び込み、玄関から上がる入り口の角に小さな花を生け、来客を迎えました。僕としては可能な限りの「おもてなし」の気配りでした。
久方の再会を懐かしみながら、母のこと、父のこと、姉のことなど話は弾んで充実した愉快な一時を過ごして従兄弟は帰って行きました。
駐車場まで見送り、車がゆっくり走り出してからもなお、彼方に去っていく姿を追いながら、血のつながり合う者は次第に少なくなってしまうなあと、一時の深い感傷に浸りました。
「無縁の時代」と言われる昨今ですが、血縁、地縁、さらに新たな知縁、社会的親と社会的子の縁など、新しい出会いの中から人間の関係は創られていきますし、またそうしたいと思います。
人は、誰も、一人では生きていけない。このことの意味の深さを考えながら、日本人の心の奥底に潜んでいる「おもてなしのこころ」を呼び起こし、出会いの有り難さに感謝し、その意味と価値をさらに創造的に高めていかなければ、勿体ないなあと感じた二つの出会いでした。
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