「もったいない」の語源・由来は・・・・惜しい、おそれおおい、などなど
もったいないは、和製漢語「勿体(もったい)」を「無し」で否定した言葉。
勿体の「重々しさ」「威厳さ」「構える」「カッコウをつける」などの意味から、もったいないは「妥当ではない」「不向きだ」といった意味で用いられていた。
転じて「自分にjは不相応である」という意味になり、「ありがたい」「粗末に扱われて惜しい」など、もったいないの意味は広がっていった。
また、「勿体」は本来「物体」と書き、「もったい」と読むのは呉音。
「物の形」「物のあるべき姿」の意味から派生し、「重要な部分」「本質的なもの」の意味となった。
さらに、重々しい態度などの意味に派生し、意味が離れてきたため「物」が省略され、「勿」という表記で和製漢語の「勿体」が生まれたとされる。
これらの経緯から、「惜しい」といった意味で用いられる「もったいない」は、「本来あるべき物がない」という意味で原義に戻ったようにも思えるが、「もったいない、お化けが出るぞ」などと言われるように、「神聖な物」「重要な物」を粗末にする意味が含まれるため、「勿体」の意味が転じた流れによるものと考えられる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・以上は、「語源由来辞典」の内容です。
もったいないって幅広く深い言葉ですね。
昭和20年代の終戦時代は「もったいない」が生活の中でごくごく普通に使われて日常用語化していた。今でも懐かしく思い出される言葉ですが、食べ物を残せば叱られ、生活用品を粗末にすれば怒鳴られて、「そんなことしたらもったいない。このバチ(罰)あたりめ」と真剣に怒られた。
終戦後の時代は物のない時代でしたから、着る物は母の手作り、食べ物は米麦野菜が主流の質素な状態でした。みんなが貧乏だったけど、限りある物の価値を粗末にしてしまわないで一所懸命に節約生活に耐えて努力して工夫したものです。
養蚕や蔬菜などで得たお金は少しでも蓄える親の姿は痛々しいほどで、今時の金満飽食の世相では
考えもつかないほどです。でも、村のこととか公のためとか子どもの教育のために必要な時はケチらずに使っていました。
節約とケチはちがうんです。ましてや、金を貯め込むことだけが趣味の拝金主義の吝嗇(リンショク)とは本質的に異なっています。勿体ない、節約と言うと「貧乏くさい・ケチ」の代名詞のように思われている時代ですが、どこかが間違っています。
勿体ないとは、与えられた命や自然の恵みに謙虚に感謝して大切にすること、節約とは無駄を省きほどよく切りつめることで、むしろ今ある物の価値を活かして有効に活用することで精神的には豊かで充実感のある生活を創造することだと思うのです。物を大切にし、それを活かしながら前向きに生きるその行為の向こうには、夢と希望と価値あるものを創出する目標のある生き方だと思います。
これらのことは、上記出典「語源由来辞典」の言葉からも推察できます。今、改めて「居ること・在ること」「有ること」の「有り難さ・在りがたさ」に気づき、謙虚に感謝して生きること、むやみやたらと無意識に粗末にしたり、捨ててしまうことの「勿体なさ」の根源に、有り難いことへの感謝の心を呼び起こし、より精神的に充実し豊かな生き方を求めていくことが大切ですね。
そんな時代の意識を持ちながら、「有り難い」と「勿体ない」を結びつける暮らしを工夫したいものです。
特に、自殺者の増加傾向や単純に人を殺めてしまう昨今の世相で思うことは、
「受けた命は有り難い。せっかくの命を失うことは勿体ない。」
このことの大切な意味を、子どもたちに自信を持って伝えられる大人になりましょう。
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