大人の忘れ物 http://www.heartandbody.net/
忘れていたよ僕は。
大切なことを忘れていた。
夜更けに睡魔と付き合いながら起きていたんだけど、
ふと耳を澄ますと蛙の合唱だ。
近くの田圃の夜間舞台で鳴いている蛙たちの大演奏会だ。
ガア・ガア・ガア・・・・ゲコ・ゲコ・ゲコ・・・・・・・・・・。
ほら聞こえてくるよ蛙の声だ。
遠い昔の日、少年の頃に聞いた蛙の合唱団だ。
蛍の舞いはまだ早いけど、もう初夏だ。
忘れていた自然の恵みは有り難い。
駄目だなあ僕は。
こんな素晴らしい感性を失いがちな日々ってつまんないよな。
自然に帰ろう。静かに自分を見つめてみよう。
あのおおらかな恵みを与えてくれた自然の懐が懐かしい。
本当に大切なものを忘れていたよ。
ああ、今までいっぱい勿体ないことをしてきたなあ。
トイレに行ったら、蛙の大合唱に驚いた。
ということでした。
さもない話だけど、うっかりしていた「大人の忘れ物」だ。
おかなおし
2010年5月28日金曜日
2010年5月23日日曜日
若老(わかろう)サロンに思う
若い力と老いの知恵をつなぐ新しい絆 ★ http://www.heartandbody.net/
5月22日(土)午後、山梨県ボランティア・NPOセンターで「若老サロン」を開いた。参加者は大学生と大人たち24人(18歳から95歳の年齢幅)の異世代集団で、老いの経験談話や若者からの意見などを自由に交換し会う交流の場は終始和やかな雰囲気だった。
今年で6年目となる「若老サロン」は、今日の世代間格差とかとかく薄れがちな人間関係を確かめあい、コミュニケーションの欠如を補って理解しあうもので、6人一組のグループワークのルールは、①テーマを決めない、②他人の話を聴く、③異なる考え方を否定しない、④結論を求めない、⑤サロンの成果は自分なりに感じた「心のお土産」、といういたって自由でゆるやかな内容だ。
参加した若者にとっては、人生経験豊かな先輩からの話に耳を傾けて聴き、大人たちは自分の失敗や成功の経験から決して説教ではない話題を提供し、同じ人間として話題を広げていく中で、相互に理解しあい、学びあう相互のメリットがある。
「大人は誰もはじめは子どもだった、だが、そのことを忘れないでいる大人は少ない」。星の王子さまの著者サンテグチュペリの言葉のように、大人はとかく自分の過去を美化して「今の若者たちは」と言い、一方、子どもは「最近の年寄りは」と言い返す。そこには「親和の心」が欠如している。
若老サロンは、このような、もったいない世代感覚の不一致を自然に無くしていく楽しい広場だ。
隔月奇数月の第4土曜日の午後行うサロンの特色は、参加した大学生が企画運営に加わって、フレッシュな感覚で進めることだが、今後の継続と発展を期待している。
5月22日(土)午後、山梨県ボランティア・NPOセンターで「若老サロン」を開いた。参加者は大学生と大人たち24人(18歳から95歳の年齢幅)の異世代集団で、老いの経験談話や若者からの意見などを自由に交換し会う交流の場は終始和やかな雰囲気だった。
今年で6年目となる「若老サロン」は、今日の世代間格差とかとかく薄れがちな人間関係を確かめあい、コミュニケーションの欠如を補って理解しあうもので、6人一組のグループワークのルールは、①テーマを決めない、②他人の話を聴く、③異なる考え方を否定しない、④結論を求めない、⑤サロンの成果は自分なりに感じた「心のお土産」、といういたって自由でゆるやかな内容だ。
参加した若者にとっては、人生経験豊かな先輩からの話に耳を傾けて聴き、大人たちは自分の失敗や成功の経験から決して説教ではない話題を提供し、同じ人間として話題を広げていく中で、相互に理解しあい、学びあう相互のメリットがある。
「大人は誰もはじめは子どもだった、だが、そのことを忘れないでいる大人は少ない」。星の王子さまの著者サンテグチュペリの言葉のように、大人はとかく自分の過去を美化して「今の若者たちは」と言い、一方、子どもは「最近の年寄りは」と言い返す。そこには「親和の心」が欠如している。
若老サロンは、このような、もったいない世代感覚の不一致を自然に無くしていく楽しい広場だ。
隔月奇数月の第4土曜日の午後行うサロンの特色は、参加した大学生が企画運営に加わって、フレッシュな感覚で進めることだが、今後の継続と発展を期待している。
2010年5月10日月曜日
ロングランの「もったいない運動」
もったいない甲斐ネットワークの仲間へのメッセージ
白川さん
GWも今日で終わりました。僕は何となく過ごしてしまいましたが、健康管理で毎日散歩をしました。湯村山を歩いて約1時間半。朝は気持ちいいですね。でも、夏陽気で少々ばてました。変な天候です。
もったいない運動は、今までの社会的な風潮の盲点だと思います。大量生産、大量消費、消費は美徳・・・への反省からの「エコブーム」ではなく、日本古来の精神文化の欠如を問いかけていく本来の生活に根ざしたあり方が問われているのだと思います。
それは、ひと・もの・いのち・きづな・など、いろいろな形で社会化してきています。
ラジオを聞いてたら、NHKでは「きづな」についてのキャンペーンをしていました。
UTYでも「きづなエコ」を発展的に多様な報道をしています。企画・発信者の渡辺部長の努力の成果だ思いますが、会社ぐるみのイメージはいいですね。金丸社長とも「もったいない運動」への参画を話したところ、本人も関心を深めて協力的な言葉をいただきました。
もったいない甲斐ネットワークのわずかな人数(5人+賛同者)による社会的な提案と行動が、メディアとマッチして幅広く協働の形で発展的に展開していけば、より効果的だと思います。
13日にはYBSで「私のもったいない」をとりあげ、リスナーからの意見などへのコメンテーター?のような形で参加することになりました。
時間は、午後1時にスタジオ入りして、午後3時半頃までの間に、どこかの時間でコメントを入れると言うことです。ですから時間の特定ができませんが、このようにメディアと連携して「もったいない運動」が広げられることは嬉しいですね。
今後は、幼稚園、保育園、子育て支援グループなど、子どもの頃から身「もったいない心」を身につけていくために、若い母親の自覚をうながすような取り組みも必要だと思います。
これから、いろいろ知恵を出し合って、ロングランの運動にいしていきましょう。
白川さん
GWも今日で終わりました。僕は何となく過ごしてしまいましたが、健康管理で毎日散歩をしました。湯村山を歩いて約1時間半。朝は気持ちいいですね。でも、夏陽気で少々ばてました。変な天候です。
もったいない運動は、今までの社会的な風潮の盲点だと思います。大量生産、大量消費、消費は美徳・・・への反省からの「エコブーム」ではなく、日本古来の精神文化の欠如を問いかけていく本来の生活に根ざしたあり方が問われているのだと思います。
それは、ひと・もの・いのち・きづな・など、いろいろな形で社会化してきています。
ラジオを聞いてたら、NHKでは「きづな」についてのキャンペーンをしていました。
UTYでも「きづなエコ」を発展的に多様な報道をしています。企画・発信者の渡辺部長の努力の成果だ思いますが、会社ぐるみのイメージはいいですね。金丸社長とも「もったいない運動」への参画を話したところ、本人も関心を深めて協力的な言葉をいただきました。
もったいない甲斐ネットワークのわずかな人数(5人+賛同者)による社会的な提案と行動が、メディアとマッチして幅広く協働の形で発展的に展開していけば、より効果的だと思います。
13日にはYBSで「私のもったいない」をとりあげ、リスナーからの意見などへのコメンテーター?のような形で参加することになりました。
時間は、午後1時にスタジオ入りして、午後3時半頃までの間に、どこかの時間でコメントを入れると言うことです。ですから時間の特定ができませんが、このようにメディアと連携して「もったいない運動」が広げられることは嬉しいですね。
今後は、幼稚園、保育園、子育て支援グループなど、子どもの頃から身「もったいない心」を身につけていくために、若い母親の自覚をうながすような取り組みも必要だと思います。
これから、いろいろ知恵を出し合って、ロングランの運動にいしていきましょう。
2010年5月7日金曜日
長すぎず/短すぎず/いい塩梅
いい加減( Better Degree )の塩梅(アンバイ)は難しいね!
友人と電話をしていたら、僕のブログについて注文がありました。仰るとおりなので、今までの書き方を検証してみました。たしかにそうだ。言いたいことは山ほどあるけれど、文章が長いんだよなあ。
どうしてこうなっちゃうんだろうと考えました。判ったことは、「構え、気負い、決めつけ、落ちへのこだわり」なんですね。
昨年の暮れに、大久保さんのご厚意で始めることができたブログです。さて、タイトルは?投稿者名は?などと考えているうちに、「もったいない広場」(投稿者:牧場の岡)という目的に添わないと駄目じゃないかという「かたち」を意識し過ぎることになったのだと思います。
今から35年前に遡りますが、某新聞社のコラム「ボランティアコーナー」を書き始めた時に言われた言葉を思い出しました。222字という突き出し囲みのコラムですが、「一字一句も余らすな。短歌のようなスペースでも起承転結を忘れるな。」という社長さんのアドバイスです。
そんなくせがついて、最期の落ちや決め手にこだわって、つい長く講釈を並べる結果となってたんだなあと、素直に反省。ご指摘のWさん、ありがとう。
これからは、「有り難い」から「勿体ない」というキャッチフレーズを基本ベースにしながら、その時なりの思いや願い、感想、提言などを綴っていきます。
でも、どこかに忘れてはいけないもの、それは 「 こころ 」 だと思います。
遠い昔に創った言葉ですが、三編ご紹介して明日につなげます。
「 心のポケットに 毎日一つひとつ幸せを入れて、そっと温めておこう。
そして明日は その一つをとりだして 友だちにあげよう 」
「 日だまりはいいな みんな寄っておいで 」
「 歩み入るひとに やすらぎを 去りゆく人に しあわせを 」
友人と電話をしていたら、僕のブログについて注文がありました。仰るとおりなので、今までの書き方を検証してみました。たしかにそうだ。言いたいことは山ほどあるけれど、文章が長いんだよなあ。
どうしてこうなっちゃうんだろうと考えました。判ったことは、「構え、気負い、決めつけ、落ちへのこだわり」なんですね。
昨年の暮れに、大久保さんのご厚意で始めることができたブログです。さて、タイトルは?投稿者名は?などと考えているうちに、「もったいない広場」(投稿者:牧場の岡)という目的に添わないと駄目じゃないかという「かたち」を意識し過ぎることになったのだと思います。
今から35年前に遡りますが、某新聞社のコラム「ボランティアコーナー」を書き始めた時に言われた言葉を思い出しました。222字という突き出し囲みのコラムですが、「一字一句も余らすな。短歌のようなスペースでも起承転結を忘れるな。」という社長さんのアドバイスです。
そんなくせがついて、最期の落ちや決め手にこだわって、つい長く講釈を並べる結果となってたんだなあと、素直に反省。ご指摘のWさん、ありがとう。
これからは、「有り難い」から「勿体ない」というキャッチフレーズを基本ベースにしながら、その時なりの思いや願い、感想、提言などを綴っていきます。
でも、どこかに忘れてはいけないもの、それは 「 こころ 」 だと思います。
遠い昔に創った言葉ですが、三編ご紹介して明日につなげます。
「 心のポケットに 毎日一つひとつ幸せを入れて、そっと温めておこう。
そして明日は その一つをとりだして 友だちにあげよう 」
「 日だまりはいいな みんな寄っておいで 」
「 歩み入るひとに やすらぎを 去りゆく人に しあわせを 」
GWの思い出・車いす生活者の1日
友だちのA君は、3歳の時に小児麻痺を患って両手両足に麻痺が残り、それから重度の障害とつき合いながら60年余りを過ごしています。彼は電動車いすを補助具としてどこへでも積極的に出かけて活発に社会活動をしていますが、このゴールデンウィークの1日をつづったメール内容を紹介します。
5月5日、ヴァンフォーレ甲府と柏レイソルのJ2サーカー戦を観に行った。小瀬スポーツ公園まで甲府駅からリフト付きシャトルバスが12時と1時に出ることを確認し、南アルプス市十五所の我が家から竜王駅まで福祉介護タクシーで行き、甲府駅前12時発のリフト付きシャトルバスで会場に着いた。こどもの日ということと晴天に恵まれて、会場は15,600人という大観衆で埋め尽くされて満席の状態だった。
車いす利用者の特別観覧席もあり5・6名が利用していた。バリア・フリー、ユニバーサルデザインの配慮が当然のことのようになされていることは嬉しいことで、サッカー会場にもノーマライゼーションの考え方が周知徹底されていると感じた。
試合結果は1対1のドローだったが、J2トップチームを相手によく頑張った好試合に終わった。
帰りは再びリフト付きシャトルバスで甲府駅へ5時に着き、5時5分発の社会福祉村行きバスに乗って南アルプス市の六科で降りた。そこから十五所の我が家までおよそ7.8キロの道のりを電動車いすで甲西バイパスの歩道を安全運転で自走して7時05分に到着した。
バスを下車してからの走行時間は1時間10分だった。その間、歩道の段差などで時たま人の手を借りるが、自分の意思で行動できることは「有り難い」ことであるし、実に嬉しいことである。地域の中で多くの障害者がどこにでも居る、その姿がある、バスでも電車でも至る所で楽しく闊歩している。そんな住み良い環境を造るのも障害者自身の役目ではないかと思うので、自分はこれからも、どこまでも電動車いすで動いて行こうと思う。そこに喜びがある。
車いす生活者、車いす利用者自身の認識、知識、チャレンジ精神、当事者としての自覚と行動、責任感・使命感などなど、山梨県は全国からみるとまだまだ他人任せでレベルが低いと感じている。4月初旬に東京の霞ヶ関で「バリアフリー・環境」についての全国大会があり、一人で行ってきた。会場には全国から重度の障害者が参加していたが、会場参加者の意見として「当事者の声が大きいほど、道路や建物などの改善・改良・新設の確立が高い」と訴えていたが、そのとおりだと思った。
誰もが、好きで障害のある生活を送っているわけではないが、一生を生きるのは自分であり、一生を変えるのも自分からだと思う。このような生き方の積み重ねから必ず社会を変えていくことが出来るのだから、そのことを自ら実行しないでいることは「勿体ない」ことだと思う。
5月5日、ヴァンフォーレ甲府と柏レイソルのJ2サーカー戦を観に行った。小瀬スポーツ公園まで甲府駅からリフト付きシャトルバスが12時と1時に出ることを確認し、南アルプス市十五所の我が家から竜王駅まで福祉介護タクシーで行き、甲府駅前12時発のリフト付きシャトルバスで会場に着いた。こどもの日ということと晴天に恵まれて、会場は15,600人という大観衆で埋め尽くされて満席の状態だった。
車いす利用者の特別観覧席もあり5・6名が利用していた。バリア・フリー、ユニバーサルデザインの配慮が当然のことのようになされていることは嬉しいことで、サッカー会場にもノーマライゼーションの考え方が周知徹底されていると感じた。
試合結果は1対1のドローだったが、J2トップチームを相手によく頑張った好試合に終わった。
帰りは再びリフト付きシャトルバスで甲府駅へ5時に着き、5時5分発の社会福祉村行きバスに乗って南アルプス市の六科で降りた。そこから十五所の我が家までおよそ7.8キロの道のりを電動車いすで甲西バイパスの歩道を安全運転で自走して7時05分に到着した。
バスを下車してからの走行時間は1時間10分だった。その間、歩道の段差などで時たま人の手を借りるが、自分の意思で行動できることは「有り難い」ことであるし、実に嬉しいことである。地域の中で多くの障害者がどこにでも居る、その姿がある、バスでも電車でも至る所で楽しく闊歩している。そんな住み良い環境を造るのも障害者自身の役目ではないかと思うので、自分はこれからも、どこまでも電動車いすで動いて行こうと思う。そこに喜びがある。
車いす生活者、車いす利用者自身の認識、知識、チャレンジ精神、当事者としての自覚と行動、責任感・使命感などなど、山梨県は全国からみるとまだまだ他人任せでレベルが低いと感じている。4月初旬に東京の霞ヶ関で「バリアフリー・環境」についての全国大会があり、一人で行ってきた。会場には全国から重度の障害者が参加していたが、会場参加者の意見として「当事者の声が大きいほど、道路や建物などの改善・改良・新設の確立が高い」と訴えていたが、そのとおりだと思った。
誰もが、好きで障害のある生活を送っているわけではないが、一生を生きるのは自分であり、一生を変えるのも自分からだと思う。このような生き方の積み重ねから必ず社会を変えていくことが出来るのだから、そのことを自ら実行しないでいることは「勿体ない」ことだと思う。
2010年5月5日水曜日
森の詩(ウタ)
森の中を歩いていたら、道が二つに分かれていた。
そこで私は、今まで通ったことのない道を選んで歩いていった。
するとそこには、全く別の世界があった。
僕が青春時代に出会ったこの詩は、とてもお気に入りの言葉です。人生行路の行く先が見えない、若さが故に出口や方向を見定めることもせずに、曲がりくねった道を歩み始める生き方の選択をした言葉であったように思います。そして、その生き方は今でも変えられそうにないけれど、それは、一般常識とか安全な生き方とかからは少し外れたリスクの伴う世界であったと思います。
だが、僕はある時山梨県ボランティアセンターで、心の病を持った二人の同年輩の女性たちとの出会いからふと思いついて創った詩が「森の詩」でした。そして、それは「受容と共生と平和」を願う僕の生き方を示唆してくれたように思います。
そうか、僕が求めていた道はこれなんだなと納得した言葉つづりです。
森の詩
人間は 一人では生きていけない
一人が一人に呼びかければ きっと友だちになれる
一本の木も 二本になれば林になる
林が大きくなれば 森になる
いろいろな木々の集まりが 森をやたかにする
森は 何でも すべて温かくつつんでくれる
森に集う人々は みな楽しい 優しい心と愛がある
人間の弱さを知っている人々の集まりである
心の痛みが分かち合える人々の オアシスである
人と人との間に 上もなければ下もない
同じ人間として ともに生きる人々の森である
仲良く 楽しく 美しく おおらかな心で
この自由な森を 大切にしたい
ゴールデンウィークをどうしようかと思いながらどこへ行くという当てもなく近くの湯村山から 昇仙峡方面に向かって小さな森の中を歩いてきました。
さわやかな緑、おいしい空気、明るい太陽の光、どこまでも続く小道・・・・・自然の恵みをいっぱいに満喫した一時でした。
堅苦しい理屈や能書きはいらないが、このような一時を「有り難い」と感謝し、このような幸せに気付くことなく時を安易に過ごしたり、失ってしまうことは「勿体ない」ことだなあと思いました。
そこで私は、今まで通ったことのない道を選んで歩いていった。
するとそこには、全く別の世界があった。
僕が青春時代に出会ったこの詩は、とてもお気に入りの言葉です。人生行路の行く先が見えない、若さが故に出口や方向を見定めることもせずに、曲がりくねった道を歩み始める生き方の選択をした言葉であったように思います。そして、その生き方は今でも変えられそうにないけれど、それは、一般常識とか安全な生き方とかからは少し外れたリスクの伴う世界であったと思います。
だが、僕はある時山梨県ボランティアセンターで、心の病を持った二人の同年輩の女性たちとの出会いからふと思いついて創った詩が「森の詩」でした。そして、それは「受容と共生と平和」を願う僕の生き方を示唆してくれたように思います。
そうか、僕が求めていた道はこれなんだなと納得した言葉つづりです。
森の詩
人間は 一人では生きていけない
一人が一人に呼びかければ きっと友だちになれる
一本の木も 二本になれば林になる
林が大きくなれば 森になる
いろいろな木々の集まりが 森をやたかにする
森は 何でも すべて温かくつつんでくれる
森に集う人々は みな楽しい 優しい心と愛がある
人間の弱さを知っている人々の集まりである
心の痛みが分かち合える人々の オアシスである
人と人との間に 上もなければ下もない
同じ人間として ともに生きる人々の森である
仲良く 楽しく 美しく おおらかな心で
この自由な森を 大切にしたい
ゴールデンウィークをどうしようかと思いながらどこへ行くという当てもなく近くの湯村山から 昇仙峡方面に向かって小さな森の中を歩いてきました。
さわやかな緑、おいしい空気、明るい太陽の光、どこまでも続く小道・・・・・自然の恵みをいっぱいに満喫した一時でした。
堅苦しい理屈や能書きはいらないが、このような一時を「有り難い」と感謝し、このような幸せに気付くことなく時を安易に過ごしたり、失ってしまうことは「勿体ない」ことだなあと思いました。
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